宣教師ブログ

聖書の勉強会レポート 02

こんにちはゲノです。宣教師ブログへようこそ!
今日のテーマは、「キリスト教とはなんですか」と聞かれたとき、一言で「なんと答えるべきでしょうか」? 。。。ん、本当に一言?(笑)
勉強会ですが、この問いかけ、テーマには、話が膨らみましたよ。
2時間半に渡って澤畑先生の書き込みに覆われたホワイトボードは真っ黒!その様子を写真にとってお見せするのは早いかも知れない。とにかく興味深いテーマにはものすごい心を動かすパワーがあると改めて実感した。

そして先生の主張はこちらです:「人はもっとも確かなものに近づける」

なるべく客観的な視点で眺めためにも、人間が行ったアクション(歴史)とイエスが行ったアクション(福音)の両道を見なければならないと思うのですが本日のディスカッションの流れは自然とそうなった。
初代教会の姿、カトリック教会、ギリシャ、ロシア正教会のその後の流れなど、そして、教会という人間の群れですから当然抱える課題が発生し、課題の解決をスムーズにできなければ、権威を伴った上層部にプロテストするのが組織構成者の自然の成り行きですから、その流れ、つまり、プロテストする運動は、当然起こり、後にプロテスタントという新たな流れが加わったわけです。そして、じきに千の教派の数を超えるプロテスタントの枝分かれ…

その後、「確かなものとは」という議論が続いた。
それぞれ人が語る誠実な意見、真摯な想いが異なっていても、それを見るのが素敵な時間だった。

その異なることを楽しみとすることができ、
その異なりから、刺激を得、
考えを深めるヒントを得、
その異なりの中から、共通する各自の「願いと信仰と聖書への謙虚な姿勢」を見、
共に、神への真摯な姿勢を持っている事で一致を感じ取った今日の勉強会でした。

その感覚は、互いへの優しい心持、つまり、愛を向け合うことをもたらし、キリスト者として生きる一致を見ることになりました。

そして、私達は人間の歴史というアクション(歴史)の中に、今も語りかけるイエスが行ったアクション(福音)の精髄を学ぶことでキリスト教とは?が見えてくるかと思える。

神は唯一。*(そのように言った瞬間にその人の心に生まれる神への畏敬をスタート地点にしてキリスト教を語るときに、キリスト教とは、、を語りえる姿勢を得られる)

それだけは確かである。
ゆえに、キリスト教を一言で言うと、、、
聖書を読み、キリストの言葉によって、肝心なものと肝心でないものを見分けながら生きる(生きようとしている)クリスチャンは、親しい人から問いかけられたら、一言で、自分の言葉でキリスト教をなんと表現しましょうか?

澤畑牧師からのこの問いかけは、とても面白い語り合いを生みました。

今日の祈り。
聖なる神様、今日の勉強会は充実した時間になりましたこと、みんな共に喜んでおります。私たちに知恵に光を与えて下さい。そして木が大きくなれば枝分かれしますが、主はひとつ、信仰はひとつ、、、とありますように、私たちの小さな教会を見守り、導いて下さい。
キリストの御名によってお祈り致します。
AMEN

在主。

聖書の勉強会レポート 01

こんにちは、ゲノです。

本日2011年12月6日、毎週火曜日のオープン聖書勉強会が開かれました。

今日は、ガラテヤ人への手紙から学びました。

「いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。」

今日もまた、なごやかな、いい空気の中で、勉強会が出来ました。

最近、「若返る」をテーマにして消費を促すマーケティング手法が目につくのは私だけでしょうか。
消費社会に生きる私達ですから「意欲」を生むためのタイムリーなテーマの選択はマーケティングの最重要課題の一つかと思います。

宣教師として日本にいる私にとって、この聖書勉強会で、自由にタイムリーなテーマを選択して「聖書の学び」が出来ることは、自分自身の心の姿勢の「若返り」となっている。つまり、人として見るべきものに目をとめ、生きていくための指針、知恵の再確認つまり若返る(初心を覚える)機会だ。

最近、ブライダル業界で結婚式を執り行っている外国人、そして、日本人司式者・牧師先生方の研修サポートについて考えさせられる機会が多い。 そのテーマがとても面白い。 
そして、言葉や作法というスキルを磨くことは当然であるが、「Be stil」ということばのように、心を静め、新郎新婦のために心の儀式を執り行うという意義を心で受け止め、じっくり揺るぎない根本精神の確認ができるきっかけになっている。

「信者が少ない日本で宣教するって大変でしょう」と言われるが、子供の頃からいたずら大好きのせいもあって、茶目っ気精神を保つ自分は 神様が自分に与えてくれたこの宣教という使命を心地よく受け止めながら日本でお役に立ちたいと願っている。

実はパウロの手紙の宛先になったローマ、ガラテヤ、エフェソ、フィリピ、コリントなどの人達はどんな社会で生きていたのか21世紀の私たちには想像できない面が多い。ところは、日本で宣教すれば「信者が少ない」というのはパウロが宣教していた当時の状況にちょっと似てる部分があると私は見ている。でも逆に代々に亘ってキリスト教によって構成された文化や社会の中で生まれ育った自分にとってこの状況を味わえることは貴重な経験だ。

私達、宣教師は、日本に来て、本当に「養育掛のもとにはいなくていい」のかを、謙虚に自分自身に問いながら「キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである」 という励ましを受けていることを感謝し、奉仕と業に励みます。
福音を伝えることを通して、キリストの教えを理解してくださる方々が増えることを願いながら、教えるという活動と共に、自分自身の学びを深め続けることが、出会う方々へのフェアーさであり、本物のの仕事をすることになると思う今日でした。

在主。

ガラテヤ人への手紙第3章19ー29節。

それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。 仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである。 では、律法は神の約束と相いれないものか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。 しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

今日の祈り
神様、貴方の恵みにより教会に一生懸命に働くメンバーが集まり、新しいブログも準備されたことを感謝しております。このブログでは、これから、ハングル、日本語、英語、フランス語、中国語で書かれるかと思います。
いろんな記事を通じて筆者と読者、互いに考え深まり、そして、その与えられる恵まれた豊かの中で、こころが通い合うように導いて下さい。
想い、言葉、こころと魂を文章でまとめる作業は、私たち人間だけでは無理ですので、私達、宣教師の力になってくださりますようにお祈りを致します。 母国語でない言葉で努力する人々もいますので多少分かりにくいことが書いてあっても、どうぞそれが読者に失礼や誤解にならないように見守って、どうか正しい言葉を教えて下さることを期待しております。主イエス・キリストの御名によってお祈りをささげます、アメン。

 

 

Around the bible

Finally !
It seems we are at last entering the cold season. Today was really freezing, and for my part, I was surprised by the cold rain that poured on nakano in the afternoon. My ride back home on my bike reminded me how fortunate I am to find shelter when I want.

Anyway, today we had our gathering with sensei and Pierre.
Although Pierre had a theme he wanted to talk about, we ended up, thanks to sensei, around a couple of quotes from Paul that I wish to share with you this week.

The first one is
Galatians 3:25
After faith has come we are not under a tutor

Does it mean that after faith has come, it teaches us from then on? Or that tutors are no more required?

Then we moved on to
Corinthians 1:10
Now I plead with you, brethren, by the name of the lord Jesus Christ, that you all speak the same thing, and that there be no divisions among you, but that you be perfectly joined together in the same mind and in the same judgement.

Being joined together by the name of Jesus Christ and that there be no divisions among you. This is so comforting to hear. There should not be divisions because of denominations, churches, credi, or nations.

Ephesians 4:4 nails it down with two clear sentences:
One lord, one faith, one baptism.
One god anew father of all, who is above all, and though all, and in you all.

Have a healthy and joyful week.

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